障害者手帳1
タケです。
先日、身体障害者手帳の交付を受けました。
申請を9月下旬に行ったばかりで、10月にはもう交付というのは、予想外の早さです。しかも日付を見ると、10月上旬。
半月もかかっとらんがな。
お役所の皆様、御見それしました。
社会に復帰する為には足(電動車椅子)が必要。
足を確保する際に、補装具費支給制度を活用したい。
そして補装具費支給制度の活用には手帳が必要。(それなりの等級も必要)
ということで、出来るだけ早い手帳の交付が必要でした。
病院の先生からは、申請してから2ヶ月くらいはかかると思うと聞いていましたが、密かに早ければ1ヶ月くらいかなぁとか期待していたワタクシ。
それをも上回る早さで市役所から障害者手帳交付の手紙が届き、ちょっとビックリ。
申請時に病院経由でくれぐれも早い交付をお願いしたのが効いたのかしら。
それとも、厚生労働省に障害者手帳交付タイミングに関する要望を送ったのが効いたのかしら。
しかし、市役所に手帳を取りに行こうと思っても、一人でふらっと行けるわけでもなく。(それどころか、退院後に家から外に出たこともなく)
妻に同行してもらえる日を聞いてみるも、幼稚園の集まりやら何やらでなかなか都合がつかないとのことで、手紙が着いた翌々週ならなんとかとのこと。
折角の役所の素早い対応が台無しになりそうな、我が家の対応。。。
取り合えず、再来週に行くことにしたとしても、その時に、
「これこれを確認して次回また来てください」だとか、
「これを申請する為にはこれが必要から次回持ってきてください」
などといったことが無いように、一発で決めないといけません。
事前に出来そうな申請は調べておいて、必要な書類をそろえてから市役所に行くべく、市役所に電話しました。
まずは、市役所からの通知には何級か書かれていないので、何級なのか、そして何が申請できるのかを確認。
すると、障害者の手引きと言うのがありまして、、、とのこと。
既にホームページ上で手引きを開きながら電話しているのですがと伝えましたが、手引きにメモして送りますとのこと。
親切なご対応して頂いて有難いです。
ただ、色々な助成の制度があるのは有難い話ですが、例えば、医療費の助成の話と補装具の補助の話は別の担当とのことで、一回の電話で10人くらい入れ替わり立ち代わりは、流石、ザ・縦割り。
また、国福祉手当を申請するには、別の診断書が必要だとか、診断書取りに行くのも大変なことを分かっているのかしらという感じ。
手当の対象となる重度の障害の人は、申請手続き自体が大変なのに。
さらに所得制限は、昨年の所得を踏まえた納税額で見るのですが、、、
例えば、歩合制の仕事でたまたま昨年は最高に良かった人は、今年の税金が高く、そして体が不自由なので収入はほぼ無し、今こそ支援が必要なのに所得制限に引っ掛かってしまう。
所得が沢山あって税金沢山払った人も、税金少なくしか払ってない人も、大変な状況になったら同じだけ支援しますよ、ならまだ分かりますが、沢山払った人には、大変な状況になっても支援は出来ませんといった、税金払ったもん負けの現在の状況は、変えて欲しいです。
さておき、引き取り当日の流れを確認して、いざ当日を待つのみとなりました。
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子供との再会
タケです。
退院した日の子供たちとの再会について。
退院した日、二人の子供たち(ちょま、のん)は幼稚園に行っていました。
一緒に帰ってくるかと思いきや、ちょまは幼稚園の後、サッカーの練習があるため別々に帰ってくるとのこと。
子どもたちとは、暫く会えていませんでした。
妻は病院に毎週来るのですが、なかなか子供を連れて来てくれず、特に、ちょまとはもう2ヶ月近く会えていない。
頭の中では、子供たちと再会した時のイメージが繰り広げられます。
久しぶりに見る父親の姿に、子供は顔を輝かせて「パ、パパ~~」
駆け寄ってくる子供。
はっしと受け止める僕。
抱きしめ合う二人。
まずはのんが帰ってくるとのことで、少しソワソワする僕。
帰ってきたとき、隠れていようかな。
その方が驚くかも。うふふ。
と妄想が止まりません。
いよいよ、のんが帰ってくるバスが来る時間。
暫くして、のんが母と妻と話している声が聞こえてきます。
よし、隠れよう。
と言っても、体が不自由な僕。
立ったまま体を屈めると崩れ落ちてしまうので、ちょっと死角になりそうなところに壁を背にして立ちます。
壁を背にしているのは、のんが駆け寄ってきても倒れないように。
準備は万端。
のんが部屋入ってきました。
母と妻と一緒にソファーに。
二人とも、僕が帰ってきたことに言及なし。
よし、ナイス。
僕の登場感が際立つ!
パパがそこにいるよってな感じで促されると隠れたのが台無し。
事前に隠れることは伝えていないものの気が利くねぇ。
などと高速で勝手に盛り上がっていってました。
そして、いよいよのんの目線がこちらに向きました。
その瞬間、固まるのん。
いよいよだ、と握っている杖をしっかり握り直し、背中をしっかり壁に当てて、のんが飛び込んできても出来るだけ大丈夫にした僕。
そして、、、
のんは、やや顔をひきつらせたような表情をしたまま、また母や妻の方を見て、何も言わない。
えっ、、、えぇぇ?
予想だにしなかった無反応?
ていうか、無視?
「あっ、パパお帰り、会いたかった」って飛び込んでこなくても、「あれ?パパがいる」とか「パパ何でいるの?」とか「あ、パパ」とか、せめて「あっ」とだけでも反応して下さいお願いします。
とは言え、のんはこちらの方をチラチラ見てくる。
戸惑った様な表情をしながら、チラチラ。
どうも意識はしている。
頭の中には、3年ほど前の光景が思い出されていました。
当時は単身赴任の前で家に一緒に住んではいたものの、朝は皆が起きる前に家を出て、夜は皆が寝た後に帰宅で、暫く家族と会えていませんでした。
休日のある日、まだ赤ちゃんののんに近づいたところ、ビクッと怯えたような目をして体を強張らせたのん。
今回は、怯えたような目ではありませんが、戸惑った表情をして僕の存在に触れようとしません。
仕方なく、こちらから「帰ってきたよ~」と近づいていきました。
暫くしたら、絡んできてくれましたが、最初の戸惑った様子は何だったのでしょうか。
それから暫くして今度はちょまが帰ってくる時間に。
のんの時の空振りが尾を引いていたため、今度はソファーに座って待ちます。
玄関からリビングを覗くちょま。
僕を見つけて、、、
「パパ~~」って飛び込んできました。
そして僕に飛びつきます。
二人の抱擁。
そうそう、これこれ!
思い描いていたのは、これ。
ちょまのお陰で沈んでいた僕の気持ちが救われました。
暫く家にいることになるので、今まで会えなかった分、沢山一緒にいてあげたい。
病気になる前の様に、抱っこしたり肩車したりは出来ないけれど。
それどころか、僕の力は3歳ののんレベルで6歳のちょまよりまだまだ弱いけど。
病気のお陰で子供たちと一緒にいる時間が出来た。
病気になってよかったこと一つ見つけました。
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退院
タケです。
先日、退院しました。
最後の日は、ちょっぴりしんみり。
嬉しいような、名残惜しいような、、、
朝、5時ごろに目覚めたので、最後の日の出でも見ようと、廊下の端っこまで車椅子で移動。窓の枠に掴まりながら立って暫く東の空を眺めていましたが、時間が早すぎて太陽出てこず。
一旦、部屋に戻ってしばらく横になっていましたが、6時ごろからソワソワ。
外も少し明るくなり始めたので、今度は病室の窓の枠に掴まりながら立って少し外を眺めて見ました。
見慣れた風景が広がっています。
転院してきて一度移動したので、この部屋に来たのは5月の末。まる4ヶ月以上、この部屋で過ごしました。
分厚いクッションを2重に敷いてかなり上げ底した車いすから立てるようになったのは、7月。この風景も約3ヶ月ほど見ていたのですね。
方角的には、家がある方向なのでこの景色の中に我が家があるのです。
帰りたいような、帰るのが怖いような我が家が。
その後、車いすに座って、ベッド横で窓から空を眺めていたら、看護師さんが、体温と血圧を測りに来ました。
「最後の測定ですね。」
「はい。」
検温一つにも、哀愁が漂います。
看護師さんがいなくなると、髭剃り。
まだ指の力がなくてシェービングクリームを出せない僕に、昨日OTの人が手作りして持ってきてくれたボタン押しツール(ラムネのビー玉を押すやつみたいな役割)を使って出したクリームを使って。
普段は、病棟内はパジャマで過ごしていたのですが、朝食の前にパジャマからお着換え。最後の食事に向かいます。
何人かの患者さんとお別れのご挨拶。
思わず「お元気で」っと口を衝いたのですが、病院で言うのも変な言葉な気も。
朝食が終わるくらいの時間帯に、丁度、ナースステーションでは朝礼が行われていて、看護師さんたちが一番集まっているので、このタイミングでナースステーションに退院の挨拶する人を見かけたことがある為、ここで挨拶に寄るべきかと頭を過りましたが、最後にまたタイミングが来るはずと、病室に直行。
僕は、家で生活出来るレベルに回復してきたと言うこともありますが、150日制限にて退院するので、入院期間は最長クラス。病棟では最古参。回復期リハビリ病棟のOT、PT全セラピストさんをコンプリート(担当してもらった)なので、変に感慨深くなっています。
昨日、挨拶したら良かったかなぁと思っていたら、主担当のOT、PTの二人を始め、何人かのセラピストさんが挨拶しに来てくれました。
そうこうしているうちに、妻と母が来てくれました。
妻が手際よく荷物をまとめてくれていると、薬剤師さんが薬を持ってきてくれました。
一ヶ月分の処方ですので、まぁまぁ大量。
殆ど、痛み止めと胃薬ですが。
次に師長さんがやってきました。
急性期に罹った大学病院の診察を受けなければならないらしく、大学病院への紹介状やら、退院後に自宅で受ける訪問リハの病院への紹介状やらの諸々の書類を受け取り、これでこの病棟でやることは御仕舞いとのこと。
病室から出て、ナースステーション前を通ったら、、、
しまった、人が少ない。
朝の忙しい時間帯だもんな、やはりさっき挨拶しとくべきだったか?と一瞬心が揺らぐ。
ナースステーションの奥に病棟の先生を見つけ、少なくとも先生にはと思って挨拶を、と声をかけた途端、病棟の色んな所からワッと看護師さんや介護士さんなどのスタッフが集まってきてくれました。
そして、似顔絵付きの寄せ書きまでもらってしまいました。
昨日、看護師さんに明日泣いちゃうかもと話していましたが、寄せ書きを受け取ったときには、感動してしまいました。
病棟の出口まで沢山の看護師さん達に見送られて、エレベーターへ。
次は、別の階にあるリハビリ室。
こちらは、丁度人が出払っている時間帯でしたが、誰か知った人がいるはずと、出たとこ勝負。
回復期リハビリ病棟担当の責任者のセラピストさんが、たまたま居合わせて、無事退院のご挨拶。
これでみんなとお別れ。
その後、タクシーに乗って家までGo。
タクシーでは病院の車で、車の乗り降りの練習した成果を遺憾なく発揮。
半年以上ぶりの家に着いた時には、変な感じ。
帰宅時最大の難関、上がり框を何とかクリアして家の中へ。
そして、
家だー。
ただいま。
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近々、娑婆に戻ります
タケです。
暫く、PCをネットに繋げていませんでした。
病院に持ち込んでいるPCがネットに繋ぐと異音を出す様になり、
夜に部屋に響き渡ってしまうので、繋げられず。。。
(一人部屋ではないので)
かといって、スマホで文章入力するのも難しく。
指先がまだ結構震えるので、スマホの小さいパネルを押すのは、推し間違いが多くて大変なのです。
ということで、ブログの更新も滞っておりました。
この間、何度か繋げてみた際に、ひどい異音が響いていたので、間をおいてリトライ・リトライ・リトライ・・・
今日、久しぶりに繋げてみたら、それほど大きな音が鳴らないので、今のうちに、大した記事ではありませんが、何か更新しておこうと。
このブログは、病気になってから経験したこと、感じたことを順を追って行ってるので、ブログの中の時間は遅々として進まず、2018年3月ですが、現実の2018年10月の僕は、転院してリハビリ病棟にてリハビリを続けております。
そして、退院が決まりました。
と言っても、いわゆるリハビリ病棟の150日ルールに従っての退去の様なものなので、もともと決まっていたと言えば決まっていたと言えなくもないのですが。
(この150日ルールに対しては、また別の機会に)
現在の状況は、まだ院内は車椅子で移動しているものの、リハビリでは杖歩行の練習をしています。
そろそろ家での生活が出来なくはないレベルに回復してきたので、ここからは、病院の中のリハビリよりも家で生活すること自体をリハビリにした方が、変化が出て回復するかもしれないということで退院を勧められ、帰宅することとしました。
家で、自主トレおよび、訪問リハビリを受けることとしました。
何はともあれ、半年以上病院で過ごしていましたが、家族のもとに帰れます。
救急車で運ばれたときには1週間で帰るつもりが、そして、入院が決まったときには1カ月で帰るつもりが、気が付けば半年以上。。。
季節も、春、夏、秋と過ぎて来ました。
色々な経験が出来ました。
色々な人たちと会えました。
色々と辛い思いもしました。
色々と嬉しいこともありました。
沢山の人たちに助けてもらって、退院できます。
動かなかった体は動くようになり、
これからは、病院の外での生活に戻っていきます。
ギラン・バレーになる前の生活そのまんまには戻ることは出来ないでしょう。
でも、病気に罹ったからこそ出来る様になったこともあるでしょう。
この病気に罹ったことがラッキーだったと今後言えるように、
これまでの経験を携えて、娑婆に出ていきます。
PCの調子が悪いので、退院前にまた更新できるか分からないので、今のうちに更新しておきます。
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心の切り替え その2
タケです。
前回、「心の切り替え その1」と書いたので、続編を。
ICUにいる時に、ベッド脇で妻が暗い顔で言いました。
「悪いことばっかり起こる」
色々な出来事を悪いことと捉え、そしてツイてない、運が悪い、なんで私たちばかりこんな目に、、、などと受け止めてしまっていたようです。
病院に来るときに風が強くて、目に砂が入った、鞄に砂が入った、なんて些細なことも、悪いことと捉えて、ふさぎ込む気持ちに追い打ちをかけた様子。
それに対して、僕は、「いいこと起こってるよ」と答えました。
妻「いいことって、なに?」
僕「子供がかわいい」
まぁ、急に自分の夫が首から下動きません症候群に罹って、今日明日にも呼吸止まるかもと言われてICUで集中管理されてますって状態になってしまったら、私の世界はバラ色ハッピーって人はなかなかいないでしょう。
人は普段、自分がいかに幸せに包まれて生きているかを認識出来ないものです。
しかし、今回のことで、いかに普段の生活のすぐ側に、想像もしないモノが潜んでいるかを認識しました。
突然の交通事故かも知れないし、突然の病、そしてそれによって起こる死や身体障害。。。
そんなものに出会わず生きてこれただけで、いかに幸せか。
それに加えて、子供がかわいいとか、どんだけ恵まれてるんだよと。
今日、体が動かなくなるかもしれないし、息が出来なくなるかもしれない。
今日、目が見えなくなるかもしれないし、耳が聞こえなくなるかもしれない。
そんな今日を積み重ねて生きてこれた。
それって、最高にツイてる。
今回、発症が海外出張先や単身赴任先だったら、僕は死んでいたでしょう。
朝起きて体が動かなかったら、電話も出来ないので助けも呼べない。
まぁ、海外出張先なら、アイツどうしたんだって仕事関係の人がホテルの部屋に様子を見に来てくれて、助かるかも知れませんが。
単身赴任先なら、いくら無断欠勤だからと言っても、電話して出なければ、即、家駆けつけ、インターフォン鳴らしても応答無ければ、即マンションの管理会社に鍵開けさせて、家に踏み込み、首から上だけ動いている男発見、なんてのは流石にあり得ないでしょう。
そうなんです、僕ってツイてるんです。
今回の病気のお陰で、子供たちも救急車に元気なまま乗ることが出来た。
ドラマの世界でしか見れなかった救急救命の現場を体験することが出来た。
これらを、なんでこんな不幸な目にって感じるか、こんな普通じゃ出来ない経験をしてしかも生きてるなんてって感じるか。
心の切り替えスイッチをどちらに倒すかは、大変重要でした。
なぜなら、病気の本人が一番苦しいはず。だったら、本人が苦しくないって思えれば、周りの人の心も軽くなるはずだから。
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心の切り替え その1
タケです。
入院して早々に、意識したのが 頭の切り替え、というより心の切り替えです。
ICUでの格好は、オムツに手術着の様な服。
あちこち紐で結ばれていて、結び目を解くといつでも裸になれそうな服です。
食事の度に、ベッドを起こされ、泡の様な食べ物やゼリー状の食べ物をスプーンで口に運ばれます。
また、それが終われば、歯磨きもしてもらいます。
こちらは口を開けるだけ。はい、あーんして(はぁと)です。
頭の中では、うちの子供たちが1、2歳のころの記憶が蘇っていました。
そして、陰洗。いんせん。
おちんちん洗ってもらうのです。
バルーン入っている人は毎日陰洗するんだそう。
って、3日目に言われましたが、入院から2日間洗ってないがな。
最初の陰洗は、若い男の看護師さんが、ベッドの上でやってくれました。
ちなみに、必ずしも男が洗うわけではなく、若い女の看護師さんも洗ってくれます。
洗われながら、ああ、自分は赤ちゃんになり切った方が良いな。
若しくは、ボケてしまったおじいちゃんになった感じかしら。
恥ずかしいとか、やらしいとか、情けないとか、そんな感情どっかにやるしかないな。
もう、どうぞ、ってやるしかないと思いました。
そうしないと、やってられない。
いちいち心の中で抵抗していると、心が折れちゃう。
子供たちのオムツ替えたなぁって思いながら、自分も足を広げてオムツ替えてもらいました。はい、ボクいい子でしょって。
一旦、意識を切り替えると、赤ちゃんが子供に成長していくように、何もできない自分も色々と出来るようになっていくことをイメージ出来ました。
早めにこの切り替えを行っていたのが、自分の中では良かったと思っています。
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2回目の血漿交換
タケです。
2回目の血漿交換 は、入院3日目でした。
血漿交換1回の体への負担が大きいため、日を開けて行うとのこと。
記念すべき1回目を写真に収めることが出来なかったため、2回目こそはと考えていましたが、まだ面会者が誰も来ていない中、血漿交換の機械が近づいてきます。
「これって、なかなか経験出来ないことでしょう。折角だから写真撮りたいのに、奥さんに断られたんですよね」
と愚痴ったのちに、
「写真撮ってもらったり出来ないですかね」
と無邪気に聞いてみました。
そしたら、若い男の看護師さん、あぁ、この人、聞いてきちゃったよと言った顔で、
「聞かれてしまったら、こちらも答えないといけないんです。上の人に確認します。」
と。
まぁ、他の人が写らないように配慮して邪魔にならない程度にちょこっと自分たちの写真を撮る分には目くじらは立てないが、正面から撮影への協力を求められると、病院として正式な対応をせざるを得ないということでしょうか。
まぁ、こちらも無邪気に質問しており、カメラがある訳でもなかったので、取り合えず今回の血漿交換の撮影は無しでとなりました。
そして、血漿交換です。
今回も、まずは首から伸びている管から血をちゅ~と抜き出してそれを布の上に出します。
血液サラサラ状態を見ている様子。
ちなみに、血漿交換すると、血液中の血液を固める因子(フィブリノゲン)も取り除かれるので、血液がサラサラになるらしいです。
おまけに、体が動かないことによる血栓を予防する為に、血液サラサラにする為の注射(ヘパリンカルシウム)も打っているので、
サラッサラのサラサラ状態
のはず。
ちゅ~の結果が良かったのか、血漿交換の機械に管を繋げて、血漿交換開始。
今回も、やることなくただただ、ぼぉ~とナースステーションを眺めるのみ。
体中に血液が流れているのを不自然なくらいに感じながら、3時間くらい経ったでしょうか。
もうすぐ終わりに近づいてきたころ、急に気分が悪くなってきました。
何とか我慢していましたが、血漿交換が終了し管を外す時に強い吐き気が。
何度か吐きましたが、吐くほどのものが胃の中に入っていなかったのが幸いしたのか、出てくるのは唾液と胃液のあいのこの様な液体のみ。
どうも、血圧が急激に低下した様子。
上(収縮期)の血圧が、120台から70台へ急降下。
急いで看護師さんたちが、僕の頭が体より低くなるようにベッドの傾きを変えてくれました。
でも、この状態で吐いたら、気管詰まらせるなぁ、などと考える余裕もなく、ただただぐったりしていました。
ちなみに、英語で血圧を上が120で下が80ですと言う場合、
My blood pressure is 120 over 80.
と言うようです。
分数を表す時も、同じ表現しますね。
6/3=2は、6 over 3 is 2.
合わせて、下記も。
systolic blood pressure 収縮期血圧(上の血圧)
diatolic blood pressure 拡張期血圧(下の血圧)
血圧さえまともに言えなくて、海外出張中に病気になったら、無理ゲーに突入間違いなしでした。
今回の病気は、勉強するいい機会を与えてくれました。
さて、1回目の血漿交換の時もぐったりしましたが、2回目は血圧急低下と嘔吐。
血漿交換に対する認識が、
単なる、
「退屈でちょっとだけ痛くて、疲れる処置」
から、
「退屈でちょっとだけ痛くて、嘔吐するほど気分が悪くなる処置」
に変更されました。
これは、流石に連日は無理だ。
なるほど、よくわかりました。
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