血漿交換と撮影

タケです。

 

月日の経つのは恐ろしく早いもので、前回の更新から早半年以上。

あっという間に、春夏秋は過ぎ去っていきましたが、

何事もなかったかのように続けてみます。

 

翌日は、血漿交換の日でした。

いよいよ、撮影の日。

って、別に大した写真を撮りたいわけではないんですよ。

ちょちょって撮りたかっただけなんです。

 

この日から、血漿交換は透析を行う部屋で実施するとのこと。

ICUは一人当たりのスペースが大きいから、血漿交換の機械を運び入れられるけれど、それに比べてHCUは一人当たりのスペースが小さいので、機械を運び入れられないのではと推察。

 

血漿交換をしにベッドごとまた移動するのですが、看護師さんの申し送りに「こいつはカメラ・カメラって煩いやつ」とでもあるのか、きちんとカメラを枕横に置いてくれました。

 

移動の度に、天井しか見えないのってやっぱりどこ移動しているのかサッパリわからんなぁなどと思いながら、エレベータにのったりして、どこかの部屋の前に。

 

ところが、連絡が上手くいってなかったのか、まだその部屋に入れないらしく、部屋の前で暫く待ちぼうけ。

といっても、どこにいても天井見ながら寝ているだけなので、全く気にならないのですが、看護師さんはやたらと気遣ってくれます。

 

そしていよいよ、入室。

おお、個室。ちょっと狭い個室。ていうかかなり狭い個室。

機材が所せましと置いてあります。

 

そして、看護師さんが交代。 

機器を設定していきます。

首から伸びてる管に、機材を繋ぎ込み、そこで早速、記念撮影?

そして、はやり「こいつはカメラ・カメラって煩いやつ」

の申し送りがあるのか、一枚パシャリの後、他にも撮りますか的な雰囲気を出してきます。

 

とはいえ、こちら手も足も動かないわけで、おまけに首から管出てるので首も動かせないわけで、ポーズ決めようにも全く何も動かせないわけで。。。

 

「いや、なかなかない経験なので一枚撮っておきたいなと。いえいえ、大丈夫です、結構です」とこちらも、いえいえ結構ですな雰囲気で応戦。

 

そして、いよいよ血漿交換開始です。

何度経験しても変な感じ。体の中の血が圧力受けて流されている感じ。毛細血管が広げられる感じ。

そして徐々に痛くなってくる。

終わりの方には、痛みが激しくなり、まだか、まだかと終わりを待ちます。

 

終わったころには少しぐったり。

 

これで3回目の血漿交換を終えました。

HCU 2

タケです。

 

遅々として進みませんが、1を書いたからには、2を書かなければ。

ということで、HCU生活の続きです。

 

ICUからHCUに移動した日は、父母が家に帰る日でした。

突然呼び出して、首から上しか動かない息子の姿を見ることになった父母には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

折角遠いところ来てもらえたのに、何も出来ることが無く、唯一の救いは、普段なかなか会えない孫たちと遊べたであろうこと。

沢山遊べたかしら。

子供たちも喜んだかしら。。

などと気にしながら見送りました。

(と言ってもベッドの上からですが)

 

ICUで聞いた、写真撮っていいのかという件は、師長さんまで確認の結果

・他の人が写らないようにする

・カメラを退院まで病院にて預かる

の条件付きでOKとのこと。

 

ということで、妻にカメラを持ってきてもらって、

HCUの看護師さんに預けることに。

明日は3度目の血漿交換なので、写真撮ってもらいます。

 

さて、夜。

ICUと異なり、24時間丸見え状態ではなく、カーテンで仕切られた中で寝ることに。

おお、ちょっとした個室感。

 

そして夜中。

お医者さん達は夜見回りをするのか、カーテンの向こうで2、3人のお医者さんと思われる人たちの会話が聞こえてきます。

 

「GBS?。。。あぁ、だからGBSって言うんだ。」

「なんで、GBSで救急にいるの?」

パソコンをカタカタ打っているらしい音。

「えっ。。。可哀そう。。。」

 

コラコラ、会話まる聞こえなんですけど。。

夜中といっても、必ずしも患者は眠ってないぞ。

単に動けないから、モゾモゾ的なものがないだけで。

 

どうも断片的な会話を聞くに、

通常のGBSでは徐々に体が動かなくなり、だから途中で気づいて入院となるので救急にくるわけではないらしい。

一方、僕の場合は、違和感出てから24時間かからずに首から下動かず、その為、救急対応が必要になりましたとさ、

という可哀そうな状況らしい。

 

まぁそれでも、人工呼吸器をつけずに済んで良かったらしい。

ということを改めて確認しました。

HCU 1

タケです。

 

暫く、入院生活を書いていなかったので、 

久しぶりに、入院生活の記憶に戻ります。

 

ICUでの生活も3日経ち、2度の血漿交換を終えて、筋力の低下も底を打った様子。

 

首から下は相変わらず動きませんし、かつ首から管が出ていて首もほとんど動かせず、呼吸も浅くて、少し会話するのも疲れるくらいの状況でしたが、

 

神経内科の先生曰く、

血漿交換が効いたんだろう。人工呼吸器はたぶん大丈夫」とのこと。

 

そして、看護師さんからICUからのお引越しを伝えられました。

なんでも、次に行く先は、HCU。

 

High Care Unit

でございます。

 

看護師さんがICUより減って、24時間マンツーマンディフェンスじゃないらしい。

(実際のところ、ICUが24時間マンツーマンなのかはよくわかりませんが)

 

そして、お引越しが始まりました。

といっても、移動中ベッドの上から天井しか見れないので、どこをどう移動したのかよく分かりません。

もともと自分が何階にいたのかも分かりませんし、行先が何階なのかもわかりません。

 

はいここです、と着いたところはICUよりもこじんまりとした部屋。

その端っこのスペースを頂きました。

 

そして、新たな担当の看護師さんが挨拶してくれ、引っ越しが一段落したころ、その看護師さんに早速、大切なお願いをしました。

 

便が出てないので、

浣腸してください。

 

ICUで便が出ていないため、ここらで出しておかなければ余計でなくなる。

出会って早々にお願いする内容か、という感じですが、

早速、浣腸していただきました。

 

少し気張りやすいように、ベッドを少し起こしてもらって、膝も立ててもらいました。

 

とは言え、オムツに便を出すというのは、抵抗感があるものです。

もう一人の自分が出しちゃいけないって言う感じがします。

出しちゃいけない陣営と出さなきゃいけない陣営の争いに、浣腸による出したい陣営が出さなきゃ陣営の加勢に入ります。

 

そして、ああぁぁ。。。と出さなきゃ陣営が勝利して脱力。

入院後の初うんち。

 

看護師さんをボイスコールで呼んで、オムツを替えてもらいます。

 

オムツを外してもらって、おしりを拭いてもらいました。

 

沢山出ましたね。立派なうんちです。と褒めてくれたのは、少し気まずそうにしている僕に対する看護師さんの優しい気遣いでしょう。

 

心を切り替えたはずが、切り替え切れていない自分。

それを切り替えようとする自分。

 

こうして僕のHCU生活の幕が開けました。

 

訪問リハの回数を減らしました

タケです。

 

前回の投稿を見てみると、11月9日。

障害者手帳を受け取った話。

もう、約4ヶ月。。。

 

その間の色々な事のうち、忘却の彼方に消えたものも多数。

とはいえ、4ヶ月前できなかったことで出来るようになったことも多数。

 

また、ちょろちょろ記事を書いていこうと思います。

 

さて、現状ですが、、、

1月の終わりに、退院以来続けていた、週3回の訪問リハビリを週1回に減らしました。

 

 

3ヶ月ほど訪問リハを続けていて感じたのは、次の2つ。

・体は既に動く状態ではあるため、リハビリの殆どは自分自身で行える。

・仕事への復帰を考えると、平日の予定は出来るだけ空けておきたい。

 

この為、リハの日を、

・OT、PTがいなければ難しいことを行う日

・自分で実施したリハビリによる回復具合を確認する日

・自分で実施するリハビリのアドバイスをもらう日

に定義づけしなおしました。

 

入院中は、最初自分では体が殆ど動かせなかったこともあり、

リハの時間は体を動かす訓練を行う時間という位置づけでした。

徐々に体が動くようになっていっても、体の動かし方を覚えて、練習する時間の中心がリハの時間というのは変わりませんでした。

もちろん、リハの時間以外にも、体を動かす自主練習を沢山しましたが。

入院中は土日も含め毎日リハの時間があったので、これで良かったのですが、退院後、週3日に訪問リハにした時に、リハの位置づけをどうするべきか思案しました。

 

退院前に先生やOT、PTの方に、家でのリハビリについて相談したところ、

・生活のシーンを踏まえて家の中で出来る訓練を行っていくのが良い

・生活環境の中で出来る自主練を指導してもらうのが良い

とのことでした。

 

 

いざ、実施してみると、自分が回復していくにつれて、そして回復のスピードが緩やかになっていくについれて、リハビリの時間の価値が中途半端になってきました。 

その為、今回リハビリの定義づけを変えてみたのです。

 

人と一緒に歩くのと、一人で歩くのは、同じ距離でも一人の方が辛いことも分かりました。。

一人だと、バランスを崩さないように無駄に力が入ったり、休憩を入れずに歩き続けてしまうからかも知れません。

 

とは言え、リハビリの定義を変更するのは回復に必要なステップだと信じて進めています。

 

嗚咽

先日、発病以来初めて泣きました。

というか、泣くのってなん十年ぶりだろう。

(映画とか本読んで感動して泣くのを除くと)

 

発病したときは、あまりに非日常的過ぎて、驚いたり、痛みや痒みに耐えたりするので精いっぱいで、悲しんでいる余裕もありませんでした。

 

また、オムツ生活を自覚したときに、心のスイッチを切り替えました。

この現状を受け入れ、その上で回復に勤しむ方に。

 

また、こうも思いました。

自分が明るくしていれば、周りの人はそれ以上暗くならないハズ。

「何でお前がこんな目に」と言う親に、

「海外出張中や単身赴任先で発症してたら、下手したら死んでたかもしれないよ。色んな幸運が重なって、今生きている。僕はラッキーなんだよ。世界一幸運かもしれない。僕が暗くなってないのに、周りが暗くならないでよ~」と伝えました。

 

そして、

「悪いことばっかり起こる」という妻に、

「いいこと起こってるよ。子供がかわいい」と教えてあげられた僕。

 

でも、今。

 

僕の病もトリガーとなり、苦しんでいる人たちがいます。

僕のすぐ周りにいる人たちです。

 

人は心に余裕がなければ、色々なことが捌けません。

思わず言ってしまったであろう心無い言葉も、受け流すことが出来ません。

特に僕自身ではなく、僕の周りの人に対する言葉は受け流せません。

前はもっとうまく捌けたはずなのに。

毒のある言葉を投げつけられても、捌いたうえで相手の心配をする余裕があった。

今は、その余裕がない。自分の気持ちで精いっぱい。

 

自分の気持ちで精いっぱいなことに気づいてしまうと、

わざと目を背けていた色々なことも浮かんできます。

仕事やプライベートのことで積み重ねてきたものの幾つかが失われてしまった。。。

 

体が動かせるだけで幸せ、家族がいるだけで幸せ、当たり前の生活の中には幸せが溢れていることに気づいた時には、些細なことでしかなかったものが、また大きく見えてきます。

 

失われたもの、変わってしまったものが悲しくて。

そして、そう思うこと自体、悔しくて。情けなくて。

 

気が付いたら、嗚咽してました。

こんなんじゃなかったんだって。

 

病気で心も苦しくなるって、他人事だと思ってました。

難病で苦しむって、身体だけでなく心が苦しんでいる人も多いのかも。

これが難病の闘病ってやつか。。。つらいですね。

 

気遣い

仕事で疲れて帰った男が、妻に声をかけた。

「こっちは疲れ果てるまで働いてるって言うのに、つわりだ、気持ち悪いだ、家で寝てるなんて暇でいいね」

 

ご飯を食べる時に、「気分が悪い」と言い出した妻に声をかけた。

「気分が悪いって言われると、こっちも気分が悪くなる。人の気分を悪くさせないように気遣い出来ないものかね。君といると気分が悪くなって食欲がなくなるんだ」

 

確かに、男は仕事を頑張り疲れ果てているんだろう。

男の求めるものも気遣いと言うのだろう。

 

ただ、気遣ってもらったとしても、幸せには見えない。

 

男がもし、

「これは食べられるだろうか。さっぱりしたものを買ってきてみたんだけど」と妻を気遣い

妻が

「疲れているのにありがとう。元気になったら、私が頑張るね」と気遣う

 

僕にはそちらの方が幸せに見える。