ギラン・バレー発症の記憶4
指のリハビリのため毎日ブログ更新すると決めたタケです。
3/24の朝の続きです。
ベッドに横になりながら朝になるのを待っていたら、部屋にちょまが入ってきました。
休日になると異常に早起きになり、ベッドに潜り込んできて暫く一緒に横になる。
そんないつも通りの休日の朝の光景。。。
この日も、ベッドに入ってこようとしたちょまに、他に誰か起きたかを聞く。
ちょま曰く、妻ものんも寝ているとのこと。
ちょまに対して、
パパは体が動かないから遊んであげられないことと、
のんを起こさないように、ママを起こすようにお願いする。
いきなり、体が動かないと言われて怪訝に思うところだろうが、真剣に伝えた意をくんでくれたのか、重大な使命を帯びたように感じてくれたようで、真剣な顔で、
「わかった」と答えて、ちょまは妻とのんが寝ている部屋に消えていく。
耳を澄ましていると、その数秒後、不機嫌な声で怒られる声が聞こえてきて、ゴソゴソと音がしたかと思うと、のんが笑顔で部屋に入ってきた。
「ぱっぱぁ~」
のんもちょまと同じように休日の朝起きると、僕のベッドに入ってくるのです。
のんちゃんごめん、パパ動けないんだ。
伝わったかどうかわからないが、のんが部屋から出ていく。
入れ替わるように、ちょまが泣きながら部屋に入ってきた。
「のんちゃん起こさないようにママ起こしたんだけど、意味ないよぉ」
寝起きが異常に悪い妻であるため、それはある程度予想された出来事でした。
一生懸命、父親の言いつけを守ろうと、真剣勝負に臨んだちょま。
しかし、その決意むなしく、のんを起こさない様に小声で母親を起こそうとして、母親の寝ぼけながらの逆鱗に触れて怒鳴られた上に、その怒鳴り声でのんが起きてしまったという、不条理な悲劇の真っただ中に立たされてしまった息子に、君は何も悪くないということを言ってあげたくて仕方なくなり、うまく動かせない腕で、息子を抱きしめるように、手を肩と頭にのせて、
「大丈夫、ありがとう」
と声をかけました。
折角の息子の行為を無駄にしてはいけない。
少し間を開けて、隣の部屋で寝ている妻に声をかけてみました。
「おはよう。後でいいんだけど、救急車呼んでくれる?」
それを聞いて、息子の必死の努力むなしく、また夢の世界に舞い戻っていたであろう妻が驚いたように大声を出しました。
「どっ、どうした!?」
ゴソゴソと起き上がってきた妻に、
体が動かなくなったので、救急車を呼んでほしいこと。
でも、救急車が来たらすぐ出かけないといけないので、まずは、子供たちに朝ご飯を作って食べさせてほしいこと。
その後、荷造りをしたのちに、救急車を呼ぶように伝えました。
救急車が来た時に、子供たちのお出かけ準備が整ってなかったら、僕だけが救急車に乗って、子供たちは後でタクシーなどで来ることになってしまいます。
子供たちは、救急車が大好きです。
「救急車は英語で?」と聞くと「アンビュランス!」と大きな声で2歳でも答えられるくらい大好きです。
(どうでも良いことですが、娘のんのファイヤエンジン(消防車)の発音は羨ましい程に良いです)
折角の機会だから、子供たちを救急車に乗せてあげたい。
体が悪くないのに救急車に乗れる機会なんてなかなかない。
そんな思いから、すぐには救急車を呼ばずにまずはお出かけ準備を進めるように妻に伝えました。
状況を把握した妻は、一階に降りていき、朝ご飯を作り、子供のお出かけに必要なものを含め荷造りを進めました。
そうこうしているうちに、救急車を呼ばねばならない事態が訪れます。
尿意を催しトイレに行きたくなったのです。
数時間前は自力で行けたのだから、助力があれば行けるかも。
と思った私は、荷造りを進めている妻に、トイレまで連れて行ってほしいと頼んだのですが、脊髄反射の様な早さで、無理、と断言されてしまいました。
そして、それに続けて、「じゃあ、救急車呼ぶよ」と。
手際よく救急車を呼んだらしい妻から、すぐ来る、との声。
しかし、トイレに行ってから救急車に乗ろうと考えた私は、体をなんとかひねってベッドから落ちるように降りると、丁度、四つ這いの様な姿勢になった、、、と思ったのですが、腕が体を支えることが出来ません。
腕を伸ばしておくことが出来ず、そのまま、頭を床につけ、膝と肩と頭で体を支える体勢となりました。
2階にある荷物を取りに来た妻に、起こしてトイレに連れて行ってほしいと伝えましたが、光の速さで、無理と断言。
あまりの速さに、Mr.アインシュタインが見ていたら相対性理論に自信を失ったであろう。
一瞬たりとも支えてくれるそぶりも見せてくれなかったことに寂しさを覚えながら、そのまま救急車を待つことに。。。
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ギラン・バレー発症の記憶3
入院して5ヶ月が経ちました。タケです。
それでは、入院する日のことを頑張って書いていきます。
3/24の目覚めは早かったです。
早朝に目が覚めると、お腹が少し痛い。
トイレに行こうと、体を起こそうとすると違和感ありあり。体に力が入らない状況から脱していない感じ。何とか体をねじってベッドから下り、何とか立ちあがる。
足に力が入らない為、うまく足の上に体を乗せないと、倒れてしまう感じがする。膝をあまり曲げないように部屋の入り口まで歩き、廊下の両壁に手をつきながらトイレに向かって歩く。
トイレで用を足すと、そこで大きな発見をする。
手に力が入らない。。。
紙を持った手首が手前に曲がらないのです。
これではおしりを拭けない!!
焦りつつ、精いっぱい手を伸ばす。
誰かを呼ばなければならないか。
もしかしたら、トイレに来たこと自体が失敗だったか。
おしり丸出しで、おしり拭けないまま朝を迎えるのか。
などと、いろいろな思いが浮かびながら、
限界を超えたと思えるくらい手を伸ばしに伸ばして、
なんとかおしりに手が届いた。
やった、第一関門突破!
トイレからよろよろと立ち上がり、下着とズボンを上げる。やればできる、何でもできる、私にできないことは無いと自分に言い聞かせ、立ちあがってこけないように、頭を壁につけて体を支える。
力が入らない手に力を込めて、下着とズボンをなんとか引き上げた。
よしっ、第二関門突破。
再び、廊下の両壁い手をつきながらヨタヨタと寝室に戻る。
何とかベッドまでたどり着いて倒れ込むと、改めて状況を整理する。
昨晩は、腕や手は力がなかったが動いてはいた。
しかし、今は腕や手の可動域が小さくなり、手首を動かすこともままならない。
朝になって家族が起きたら救急車を呼ぼうと心に決める。
子供のころの救急車の記憶を思い出していました。
幼稚園の頃、一度救急車で運ばれたことがある。
家でお腹が痛くなり、お腹が痛い痛いと母に訴える。
ただ痛みは常に強かったわけではなく時々強くなる程度。
放置していてもそのうち治るかもしれない。
本当に痛いのか、我慢できないのかと言われる度に、問い詰められたような気になり、折れそうになる心に負けじと、痛いと言い張ってみた結果、
親は近所の内科の先生に電話をかけ、夜にもかかわらず診てもらうことになった。
その結果、救急車で大きな病院に行くこととなり、思いのほか大ごとになってしまったと心がさらに折れそうになる。
気のせいか何だか、お腹の痛みも和らいできたような気がする。
そうこうしているうちに、救急車が到着し、担架の様なものに乗せられ、救急車内で
酸素マスクの様なものをはめられる。
生まれて初めての救急車である。
そのうえ、生まれて初めての酸素マスクである。
ヤバい、少し興奮してきた。
救急車が走り出す。赤信号も止まらずに。
これが噂に聞く救急車は赤信号止まらなくていいってやつか、
と窓から景色を眺めるうちに、気分がよくなってきてしまい、
いよいよ、お腹は痛くなくなってしまった。
ここまで大ごとになって、何もありませんでしたじゃまずい、
病院の検査で問題があるように祈ったものである。
なんの病だったかは忘れたが、結局、幸いにして、
何らかの異常が見つかったようで、一週間ほど入院した。
そんな、淡い記憶を思い起こしながら、朝になるのを待っていました。
窓から朝の光が差し込み、部屋が明るくなってきたころ、ちょまが笑顔で部屋に入ってきました。
ちなみに、我が家は、妻と子供たちが同じ部屋で眠り、僕は一人別の寝室で寝ています。
単身赴任のため、普段一緒に過ごしてやれない子供たちは、休日になると異常に早起きになります。
そして、僕が寝ているベッドに潜り込んできて、暫く一緒に横になるのが、いつもの休日の朝の光景です。
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ギラン・バレー発症の記憶2
病院の中で、毎日忙しくしていて、入院しているのに過労で倒れそう、
といった冗談ともつかない話をしているタケです。
流石に、5か月前の出来事ですので、はっきりと覚えていない部分も
ありますが、ギラン・バレー発症のあたりを書いていこうと思います。
その前に、我が家の家族構成を。
妻 :呼び方は妻と協議中(笑)
長男:ちょま 5歳(当時)
長女:のん 2歳(当時)
さて、3/23です。
朝、ベッドから体を起こす際、何となくお腹のあたりに違和感が。
お腹が痛いとかではなく、体をうまくねじれないというか、、、
やはり、風邪が治りきっていないためのだるさが残っているのかと思い、
午前中に病院に行くことを決意。
一昨日に名古屋から帰ってきた際に、駅からの帰り道、
興味本位で入り口までのぞいた駅前に新しくできたらしい病院にでも行ってみることにする。
だるいながらも特段ほかに症状もなく、医者のほうも、「インフルではなさそうですね、風邪でしょう」と。
病院の帰り道、何となく力が入りにくい気がする。
体が「ダルおも~」と言ったものとは少し違う。
一生懸命歩いているのだが、その横をお婆さんが追い抜いていって、愕然とする。
高熱が出ている訳でもないのに、ゆっくりとしか進まない。
病院に向かった時には感じなかった違和感。
さっきと違う。なんだこれ。。。なんか、うまく歩けない。
家にたどり着いたが、体が重い。
熱などで体が重いのは、
疲れた → 力でない → 体動かしづらい → 体が重く感じる
だが、この時の状況は、
体が重い → 体が動かしづらい → 疲れてくる
という、普段の体調が悪い時とは逆のことが起こっていたのです。
始めは足の方に力がうまく入らない感じが、加えて腕の方も力が入りにくくなってきた気が。
夕方、子供たちをお風呂に入れたのですが、時を追うごとに力が抜けていく感じ。子供たちを抱きかかえられるか不安だったので、ちょまは自分で湯船に入ってもらいました。のんはギリギリなんとか抱えられるくらい。
お風呂から上がり、子供たちに本を読み聞かせた後、寝かせるため、2階の寝室に。いつもなら、滅多にいない父親に甘えさせてあげるべく、抱っこして連れていくのに、2階まで連れていく自信がない。
「今日は手をつないで上がろう」と言ったら、素直に手をつないで階段を上ってくれました。
父親の様子がおかしいことを、ちゃんと理解してくれて助かりました。
子供たちを寝室に連れて行ったあと、あまりにも変な状況の為、ネットで調べてみることに。
「からだに力が入らない」
脳梗塞、自律神経失調症、ストレス、そして、ギラン・バレー症候群
脳梗塞とかなら、そろそろ気を失っているのでは?もうすぐ来るのか?
ストレス、、、確かにないとは言えないけど、急に?
となると、この耳慣れないギラン・バレー症候群ってのが怪しいかも?
などと思いながらネットの情報を貪りました。
そういえば、背中も痛い。絞り込むために付け加えてみる。
「からだに力が入らない」+「背中の痛み」
なになに、「背中の痛みは、内臓の病気の重大なサインである場合がある。」
うーん、内臓の病気って、、、かえって可能性が増えてしまったじゃないか。。
などとやっていたら、23時頃電話の着信があったことに気づく。
留守電にメッセージ。アメリカの同僚から。
1時間前だけど、最後の電話になるかもと頭をよぎりつつ電話。
30分ほど話が続き、終了。
夜中1時。寝るために、2階に上ろうとしたが、もはや手すりにつかまらないと上れない。寝れば治るかもという期待とともに、悪化してたら救急車とか。。まさかな。
と思いながら寝ました。
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ギラン・バレー発症の記憶1
暫く間が空いてしまいました。病院でオンライン英会話をやっていると、英会話講師から「あなた、本書きなさいよ」と勧められたタケです。
本を書く代わりにとりあえず、ブログを書き進めようと思います。
今日は、ギラン・バレー症候群を発症したあたりの記憶について書いていきます。
ギラン・バレー症候群発症した方々のブログなどを見ていると、
発症直前、超忙しかったという記載をよく見かけます。
もしかしたら、過労による体力低下やストレスなどが、発症と関係しているのかもしれません。
いずれにせよ、僕も今年の3月に発症するまでは、結構忙しい日々を過ごしていました。
会社に夜12時頃まで残って仕事。
朝は海外との会議があるため、日によりますが、7時ー8時出社。
2ヶ月に1回程度の海外出張。
家族と離れて単身赴任。
ひと月に2回程度、家族のもとにかえるものの、家に着くのは金曜の深夜1時。
土曜の朝は、なぜか土曜朝に限って早起きする子供たちと遊び、朝ご飯の準備。
それでも、子供と会えるのが生きがいと、日曜の夕飯まで家にいて、
日曜深夜に赴任先に着いたら、月曜朝から仕事の生活。
ただ、病欠もなく、ある意味規則正しい生活でもあったので、
そこそこ健康に暮らしていると思っていました。
そして、3月に入って早々、オーストラリア出張。
南半球の為、季節は夏の終わり頃。
夏の国に出張だからと薄着で臨んだところ、会議室のエアコンが効きすぎて寒く、軽く風邪気味に。喉とお腹にきましたが、特別ひどい症状では無かったため、そのうち治るだろうと思っていました。
そんなおり、妻から体調が悪いので病院に行きたいとの連絡。
滅多に休みを取らない為、年度末で消滅してしまう有給休暇も沢山余っていたこともあり、休みをとって妻を病院に行かせることに。
この出張中に、翌週はアメリカ出張が決定。アメリカ出張後、日程的に直接家には寄れないので、お土産を持って家族に会いに行こう。あわよくば、自分もその間に病院にでも行って薬をもらおうかと。
今思えば、この判断が奇跡的に命を救うことに。
オーストラリアから帰って一旦家族のいる家に寄りました。
実はこの時、膝のあたりに痛みを感じていましたが、そのうち治るだろうと放置していました。
翌週、出社後、すぐアメリカに発って3/18(日)の夜に帰国。
3/21(水)が祝日の為、3/22、23をお休みにすることに。
3/19、20と働いて、3/20夜は送別会に参加。
二次会にも参加し、3月いっぱいでお別れになる方々との名残を惜しみ、
翌3/21、家のある千葉に向かいました。
3/22は、妻を病院に行かせて、子供たちと工作して遊びました。
この時は、体に少しだるさを感じていたものの、海外出張続きでもあるし、風邪がまだ治りきらないなぁと思っていた程度でした。
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ギラン・バレーという病気
過去最高の気温を更新する暑い夏に、涼しい病院のベッドの上で、ゆっくりキーボードを叩いているタケです。
ブログを書き進めるにあたって、今回ブログを開設するきっかけになった、
という病気について、紹介いたします。
ギラン・バレー症候群(Guillain-Barré syndrome)は、
フランス人のギランさんとバレーさんが症例を報告したことから、そう呼ばれるようになった病。略してGBS。ってなんか、ちょっとカッコイイ。。ことない。
で、どんな病気かと言いますと、
- 免疫活動が抹消神経を損傷し、急に手足が動かなくなる。
- 風邪の様な症状や腹痛、予防接種がきっかけとみられる。
- 急速に進行し、1日から数日間で悪化。
※僕の場合、気づいてから1日で寝たきり状態。 - ひどい場合は、手足に加えて、呼吸困難、顔面麻痺、感覚消失。
- 数日から1ヶ月程度まで悪化した後、数ヶ月から1年程度で回復。
というもの。
また、
- 10万人に1人ほどの割合で発症。
- 20人に1人ほどの割合で死亡。
- 4人に1人ほどの割合で人工呼吸器装着。
- 5人に1人ほどの割合で1年後も歩けない。
- お子様からお年寄りまで発症。
- 男女比では、3:2で若干男性の方が発症しやすい。
- なぜ発生するのかは研究途上、治療法は確立していない。
という、いわゆる難病です。
そんな病気の扱いですが、
- 厚生労働省の難治性疾患克服研究事業(臨床調査研究分野)の対象
として研究されているものの、
- 難病情報センターから説明が削除された。
(以前はあった⇒難病情報センターの更新履歴) - 医療費助成対象疾患(指定難病)からも外れている。
- 一時期、障害者総合支援法の対象疾患になったものの、外される。
という扱いを受けているのです。
◇障害者総合支援法の難病の範囲の変遷
- 2013年4月 障害者総合支援法の難病範囲が指定される(130疾患の1つ)
※「難病患者等居宅生活支援事業」の対象疾患と同じ - 2015年1月 130疾患⇒151疾患に見直し 生き残る
- 2015年7月 151疾患⇒332疾患に見直し 除外される!
※対象の拡大と同時に、これまで対象であった16疾患が除外。 - 2017年4月 332疾患⇒358疾患 復活せず
- 2018年4月 358疾患⇒359疾患 復活せず
この2015年7月の対象疾患大幅見直しの前に、厚生労働省で行われた検討会、これについては別途記載したいと思います。
個人的には、2015年1月1日施行の
難病の患者に対する医療等に関する法律(難病法)
と合わせて、ギラン・バレー症候群に関して却って公的な情報が削除されていった感もあります。
と少しまじめぶって、いろいろと書いてきましたが、
要するに、
死ぬかもしれなかったし、障害が残るかもしれない、
珍しい病気になっちゃったんですぅ
ってことなんです。
なお、下記のサイトに素晴らしく色々と関連情報がまとめられています。
rayofhope-link-gbshiroba.blogspot.com
大した記事でもないのに、ゆるやかに動く指でいろいろ検索してたので、時間がかかっちゃった。
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↓興味があったら押してみそ。
難病で動かなかった手が動くようになったので、病院でブログを始めてみる。
はじめまして。20年以上ぶりにブログを書くタケです。
まず、始めに。。。
僕は、いま生きています。
いきなり何を、、、
当たり前じゃん。
という感じですが、現在病院のベッドからこの記事を書いています。
20年以上前に、ブログを書くのをやめて以来、何も書いていませんでした。
それなりに面白く刺激的な日々を暮らしてきましたが、それを
残したい!
とは思っていませんでした。
しかし、今年、人生を大きく変化させかねない出来事が起こりました。
突然、ギラン・バレー症候群という難病にかかったのです。
そして今、病院のベッドでこの記事を書けるほどに回復しています。
このギラン・バレー症候群という病は、10万人に1人といわれるレアな病。
突然、手足が動かなくなり、場合によっては呼吸が出来なくなるって病。
- 5%は死亡。
- 20%は1年後も歩けない。
- 40%は職業を変える必要がある。
- 1ヶ月で回復する人もいれば、10年以上闘病を続ける人もいる。
って病。
この病にかかったときに、最初に思ったことは、
「体動かないってなにこれ面白い」
次に思ったことは、
「子供を救急車に乗せてあげられる」
でした。
親バカ、、、というより、バカ親ですね。
そんな呑気な僕にも、その後、辛く厳しい現実が迫ってきます。
そして、改めて振り返ってみると、
「あの時、間違ってたら死んでたな」
ということも沢山ありました。
折角、10万人に1人と言われる病を発病するという、得難い体験をした(ってまだ現在進行形なんだけど)ので、何も残さないのは勿体ない。
病気になったことによって、感じることが出来たこと、学ぶことが出来たこと。
それらを形として残しておきたいと思いました。
本でも書こうかと、本の出版の仕方をネットで探していたところ、今やブログの方が多くの人に届くかもしれないと気づき、このブログを始めてみます。
少し前まで動かなかった指のリハビリを兼ねて。
生きている皆さん、僕も生きてますよ。